憧れの東京と可能性
学校卒業と同時にインターンを辞めて無職になった僕は、中学校の同級生を訪ねて東京遊びに行く。
高校の修学旅行以来の東京は思い描いた通りの都会、福岡のアパートを借りたままなので当然戻るつもりでの東京旅行。
居候させてもらった友達は大学生なので、大学に行っている間に僕は東京の思いつく限りの憧れのエリアを探索。
友達と初めて自分のお金で、仕事をしないで自由に行動ができる時間を思いきり楽しんだのを覚えてる。
六本木ランダムウォーク(本屋)で買った本は「東京の仕事場」という東京の仕事をセンスよく紹介する内容で、これは今も持ってる。
そうしている間に数日が過ぎ何がきっかけか覚えていないけど、大崎の駅で「多分東京に住むんだろうな」と直感みたいなものが働いたのを強く覚えてて、その時に多分東京が”憧れ”ではなく”現実”になったんじゃないかと思う。
そこからは反射的に帰り道でB-ingという求人広告を買って帰った。(当時の求人は紙媒体しかほとんどなかった)
これが実質初めての就職活動となり、正直なところインターンで徹夜続きかつ学校の友達づきあいもほとんどなく就活については何も知らなかった。
20歳で初めての東京での就活
就活をしようと思ったのは良いが、何も知らない。
そこがスタートラインだったからどうするのがベストかなんてわからない、まずやったことは求人誌を見て良さそうなデザイン会社に連絡をしてみた。
当時はウェブではなく電話連絡で日程を確認してから面接に行っていた。
ここでの判断基準は”おしゃれそうな会社”というありがちだが東京に憧れた者の考えることで、特に会社が何をしていて何を目指しているなんて1mmも考えてもいなかった。
僕はひたすら求人のお気に入りをちぎってメモして面接日程を組む。デザイナー希望なので履歴書というよりは「ポートフォリオ」という作品集が必要になる。
そのポートフォリオを見て企業はその人のセンスや技術を見て判断するというもので、これは今でも変わっていないと思う。
印刷してもらえるところに自分のデータを持っていきポートフォリオを完成させていく、その時に唯一の武器は専門学校時代某大手企業のコンペで入賞したカメラのキャッチコピーとポスターデザインのみ。
他は正直自分でも良いか悪いかわからないものばかり。
何も深くは考えていなかったけど、タイムリミットはあった、それは福岡のアパートだ。旅費という全財産の40万円はすでに減り始め友人の家へ居候させてもらっていたので、生活費や家賃の一部を渡していたからかなり速いペースで減っていった。
長くても1ヶ月。これが僕の東京での就活に設定されたタイムリミットだった。
門前払い
なんとなく面接はスーツじゃないか、と考えてなけなしのお金を使いスーツを買うもかなりのブカブカ具合。
セールされていたからというのと、スーツというのはだいたい体に合うだろうと勝手な思い込みで初めて買うスーツは試着もせずに買った。
ポートフォリオも印刷してファイルにセットした、スーツも少しブカブカだが初めて着るスーツは少し大人にさせてくれる印象で心強かった。
16年経った今でも覚えているくらいこの時期の就活は無謀だったと思い出す。
実質新卒なのに卒業していたから、今みたいな第二新卒という言葉はそこまで浸透はしていなく「新卒」という”プラチナカード”から「地方在住かつ中途枠で未経験」という”紙カード”に引き下げられていて難易度が格段に上がっていた。
だからライバルは中途の経験者になった、面接してもらえたのは全てデザイン会社で数社あったが記憶に強く残っているのは3社で、1社目は無知な状態の自分でもわかったほど雰囲気の良くない原宿のデザイン会社だった。
そこは単純にはたから見て楽しそうな雰囲気もなければ、面接をしてくれた人もとても疲れていた。そこを受けた後僕も元気が無くなったのを覚えている。
そして2社目は表参道、そこは面接を頼んだことを忘れているか僕が間違ってきてしまったのかというくらい冷たく扱われた。
受付はなく通りすがるスタッフの方に声をかけても流されて、ようやく取り次いでもらえたと思えばとても態度の悪い男性が出てきて、面接するからと部屋へ移動する。
もうこの時点で僕は萎縮していた。
恐る恐る出したポートフォリオはパラパラめくられて言われた一言は「このくらいだったらどこにでもいるからさ」とそこで面接は終了し、僕は少し自信のあったポートフォリオと自分の実力を否定されたような気分だったし、実際今でも覚えているくらい傷ついた。
このときくらいには福岡への帰省タイムリミットが迫っていて、僕の頭の中は半分くらい東京でのこれからの生活ではなく、地元へ戻った時のことを考えるようになっていた。
表参道の第一志望企業
3社目のデザイン会社、ここは表参道で場所もオフィスも憧れるようなおしゃれな会社だった。
実際タイムリミット的に最後の会社だったから、できるだけ楽しんでいこうと思って、当時原宿のラフォーレの地下にあったHMVで多分面接までの時間3、4時間は色々好きな音楽を聴き続けていたので実際楽しい時間だった。
その会社の面接は少しのっぽな若い男性と、とても強面なおじさんが面接官で二人で話してくれたことに僕もとても好感を持てたし、いい会社だと思った。
「何が好きなのか」、「さっきまでHMVでずっと音楽聴いていた」とかどうでもいい会話も含めて自然に話せていたし、「丁稚奉公みたいに頑張れるか」などと少し見込みがありそうな質問もしてくれていたから、もしかするとと思っていた。
そこから数日が過ぎていよいよもう帰ることになるタイミングくらいで、内定の電話がかかった。
この時は本当に嬉しかったし、すぐに父親に電話したのを覚えていて、当時の同級生に勝った気もした。
上京してからずっと思っていることだけど、この内定がなければ僕は多分東京にはいない。
冷静に考えればお金が尽きて無職の状態で帰るから福岡にもいない。2019年の今ではもはや働く場所はどこでも良いしあまり意味はなくなってきているけど、僕らが生きた当時は今よりもっと東京は特別だった。
だから結果論だけど僕は東京に来たチャレンジ、お金を失うリスク、面接をして行動するアクションを通じて可能性を信じれるようになった「直感の確信」が一枚強くなった経験をこの時にしたと思っている。