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ほんしつめがね

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上京して16年でヘッドハンティングされるまで_営業編

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また無職に戻った、そして焦った

デザイナーをやめたのは、勢いというか何も考えていなかったことと転職や社会に対してあまりにも無知だっただけでした。

22歳でちょっと経験したくらいで市場価値が高まるわけもなく、絵を描く為に”自分の時間をつくる”というような全社会人が抱えている問題をそんな若者が達成できる甘い話があるはずがないと、気づくべきでした。

というか本当に誰かに相談することをすれば良かったと今でも思い出します。

この無職に戻った瞬間が転職を何度も経験した中で一番焦っていたと思います。

お金もない、次のあてもない、自分の市場価値もわからないそうして就職が決まらなければ地元に戻ることになるそういう焦りがずっとあった気がします。(この約一ヶ月程度の期間に、ラブホのバイトを経験していますのでそれはまた別の機会に投稿します。)

ただ、そんな「良い話」はありました。

当時の無知っぷりは専門職ではなく一般職に転職をすれば”フツウの時間”に帰れて人並みの生活ができると考えていて、営業職もその内の一つだと思っていました。

そうです、この時は営業が何かも知らない状態でいわゆる条件面だけで応募する典型的な失敗を招く転職スタイルでした。

その「良い話」の求人には”未経験歓迎”、”高収入”、”オフィスワーク”、という今見ればどう考えてもブラックな匂いしかしないワードを組み合わせた求人に見事に引っかかっていたのでした。(今だにこの手の求人は無数にあるので、当時の僕みたいな経験をしている人は多数いると思います)

当然ですが、「応募=採用」という基本的な構造で即採用され疑うこともせず、むしろ異業種に採用されたことに自信を取り戻すほど浮かれていました。

初めての営業という名のテレマーケティング

”オフィスワーク”は単純に、楽そうというイメージで応募しましたが、そこは営業の世界です。数字というものがつきまとってきました。なぜかその数字が悪いと怒られるという今まで経験したことがない世界でした。

本当に引きが良いのか悪いのか超ブラック企業にあたり体育会系の最高峰みたいな組織で、僕は浮いていました。

商材はというと法人に対しての通信回線契約の切り替えで、この時の”数字”は顧客へ契約の為に送付する、FAXの数いわゆる営業のきっかけづくりの最初の申込書を送付するというものでした。

基本的に断られていることが98%くらいなので、気持ち的に良いものではないです。

そして何となく流れで契約のFAX送付が良いと言ってくれる方が1%、本当に意欲がある方が1%というような世界でしたので確率論で一日中電話をし続けて断り続けられる作業を繰り返し、確率で怒られたり褒められたりする世界。

「どうしよう、全く楽しくない」

という感覚が1週間もせずにつきまとうようになります。

やりがいと挫折

自分と会社の文化の相性問題もあったと思いますが、独特な体育会系文化にそもそも馴染めないこと、その時の業務が圧倒的につまらないと感じたことで、早くも入社1ヶ月くらいで退職を考えていました。

しかしここで転機が訪れました、新たに”保険事業”を立ち上げるということで立ち上げのメンバーが選定されたのですが、なぜかそこに僕の名前がありました。そしてこの出来事がその後に大きく影響するのでした。

当時は、保険というものが何かもよく知らないし、メンバーに選ばれたことも含めて、何が起きているのか理解してないような状況です。

しかし、どうやら僕には保険を売るセンスがあったようです。

見よう見まねではじめた、テレマーケティングでの提案と営業の経験を繰り返していくうちに、意外にもお客さんは興味を示し通信回線の時のようなつまらなさは減り、個人のお客さん相手ということもあったので、”営業”の楽しさに目覚めていきました。

そして念願の初契約は、素人の僕が戦力化したという事と教えてくれていた方の熱意もあり、とても褒めてもらえて感動的なものでした。よく考えたらここまで褒められたり喜んだことは、その時まではなかったように思います。

そこからはトントン拍子で成果を積み上げることが出来て、生まれて初めて”責任者”になりチームを持ち10人前後の仲間と目標を追う楽しみを知っていきました。

この時の”数字”は契約数でした。そして、その”数字”をあげていけば、チームは何も言われないという事が肌感覚でわかりました。

なので、体育会の会社だけど、自分の「チームは好きにしたい」と思ってその為に頑張っていました。

結果的に雰囲気が良くて数字が出せる良いサイクルの成績トップチームをつくることが出来ていました。

そうした実績を買われて社長が立ち上げる新規プロジェクトの責任者となり、ここで初めて課長になりました。

今では考えられないですが、300名位の社員の中から「好きなメンバーを選んで良い」と言われ、その通り好きなメンバーに決めました。

そして時は過ぎ、更に大きなプロジェクトの責任者へと立場は上がっていきました。7人で始めた保険の事業は、既に300人を超え、僕は60人もの組織を見ていました。

はじめての倒産

順調にいくかと思いきや、社外から役員が入ってから状況はガラリと変わりました。これまでも体育会のブラック企業代表という位のハードな環境でしたが、その役員は今までを過去のものにするほど、強烈な力で組織を動かしていきました。

・深夜0時に取引先との会食を終え、朝までに施策を10個提出しろと言われたり

・結果的に提出しても見ずに捨てたり

・殴られたり(僕ではないですが)


”数字”が悪いと何もかも破壊されるくらいに、感情がむき出しになって誰にも止められませんでした。

あまりの理不尽さに僕はここで退職を決意しています。会社に「異常ですよ」というメッセージを送ろうとしていたと思いますが、上司に説得をされて結果的にそこでは辞めることを留まり残りました。当時は、

・何もしていなくても涙が出る

・いつも不安にかられる

・出社するのが怖い


という感じで適応障害に近い状態まで追い込まれていて、完全に精神が擦り切れていました。そこから少しずつ会社の雰囲気もおかしくなりました。

その人が原因というよりは、様子が変でした。給与の遅延・支給日の変更が行われたりし始めて「会社がやばいのでは」と囁かれるようになっていき、危ないからやめますと数人ちらほらと退職していきました。

そして…

ある日出社するとメールが届いていて中身は「会社が倒産」したことを知らせる内容でした。

このドラマの様な展開に、恐怖ではなく何が起きたのか掴めない状況で呆然としていた気がします。一緒に見ていた同僚やチームメンバーも同様に唖然として、とりあえずその日は全員で帰ることになりました。

状況としては、3ヶ月分の給与が未払いでメール一本で即日解雇されていました。

当時少しニュースにもなりましたが、会社が乗っ取られてしまい経営権を奪われ売掛け金目当ての犯人達は、その日限りで従業員を全て解雇にしたのでした。

その時解雇された従業員数は700人、僕もその一人ですが当月分も含めると給与が3ヶ月も入っていない状態でした。

その為すぐに仕事を探すということと未払い分をどうにか回収する必要が全員に襲ってきました。

まず、就職に関して言うと今ほど人材難ではない時代だったので、かなり買い手市場でしたが捨てる神いれば拾う神ありと言うことで、近しい業界の企業が受け皿として大半は救済的に職を得ることができました。

その当時人々の様子を見ていると、そうやってすぐに次を見つけられる人、こっそり取引先に取り入り自分のあてだけ確保する人、きっかけを活かして独立する人、そこについていく人、無職になって困る人。多くの人間模様が垣間見えました。この時に僕は

会社が無くなれば全員同じ人間なんだ

と感じ実力の重要性を強く感じていて、今でもその危機感は残っていると思います。あの、パワハラが酷かった役員も多分に漏れず”ただの人”になっていました。

人事へのきっかけ

就職の問題ともう一つ、給与の未払い問題は残っていました。なにやら乗っ取られたのだし貰うことはもう無理なのでは。

と考えていたのですが、当時の人事部の皆さんは自分の就職活動を後回しにして、従業員の社保や事務処理の手続きをしてくれていました。

そして数ヶ月後にはなりましたが人事幹部の方が先導して、給与未払いの回収を実現さてくれました。当時この出来事がきっかけで、人の役にたつことをしていると言う実感があり、自分の中で「人事」と言う職業に興味を持つようになりました。

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